文責:なつき
佐藤研の学生ブログにお越しの皆様、初めまして!
今年2023年3月に修士課程を卒業いたしました、杉浦菜月と申します。
このたび、このブログにて、佐藤研での2年間を振り返る機会をいただきましたので、
・今後、修士課程に進学することを検討している方々
・佐藤仁研究室での生活を垣間見てみたい方々
の主に2タイプの読者の皆様に向けて、私がどんな2年間を過ごしてきたのかお伝えしたいと思います。
M1:手探りでひたすら量をこなす
4月にゼミが始まり、同時に講義も始まりました。当初は完全オンラインで、対面でのディスカッションが叶わない日々…。諸々の準備が全てPC上で行われていた時期でした。
ゼミでは先生のお薦めにより、輪読所としてA. O. ハーシュマンの『開発計画の診断』を読み始め、難易度の高い社会科学の英書の読破に挑みました。章ごとにプレゼンターを設けて各回のゼミのファシリテータを担い、論点の提示から当日の司会進行まで、M1&M2のペアが協力し合って進めました。
私は松原さんと「許容性と拘束性(Latitude & Descipline)」を担当し、学部時代では考えられないほどの熱量でディスカッションし、準備を行いました。
ここで非常に難しかったのが、「単なる内容のまとめ+α」となる資料を作ること。
輪読の場合、全員が本を読み内容を理解していることが前提であるため、私がそれをまとめたという価値づけを行う必要があります。
卒論はともかく、これまでやってきた学習の主な形態は、読んできたことのまとめ+自分の主張を論じることであり、人と議論するに足る観点を加えることに試行錯誤しました。
さらに、5月下旬からは、研究発表の為、当時関心のあった「環境問題と外部性」について、辞書を片っ端から引いて調べたり、Google Scholarでヒットしたものを片っ端から読んだり…。時間はいくらあっても足りませんでした。
そして、9月からは、仁先生の「開発研究」が始まりました。
ここでは、これまでの常識をくつがえすような多くの学びと刺激を受けました。
一番の発見は、「開発=都市化」ではない、ということ。
いまさら何言っているんだ!?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、非都会部(=ビルの立ち並ぶ都心部でもなく、緑豊かな自然界でもなく、その中間の、”不便ではないけど便利さを実感することのない地域”)で生まれ育った私にとって、便利でも不便でもない地域を拓き、ビルが林立し無数のインフラが整った街を作り上げることが、発展であり開発であると思っていました。
しかし、都市での生活が蝕む人間性に光を当てた『パパラギ』をはじめ、都市生活を支える分業、移動、人工物など、便利さとその裏にあるものについて常識をゆさぶられたことで、徐々に私のこの「都市礼賛」的な態度は薄らいできました。
この傾向は研究テーマの設定にも影響を与えたのは言うまでもないことです。
当初論文のテーマとしようとしていたことは、●●だったのですが、より幅広い時間軸を設定し、今ある価値観を支えている前提となる歴史的過程を辿り、今見えているものを丁寧に読み解くことで見えてくるものは何かという観点から、石油産業を軸に経済成長と環境配慮の試行錯誤の歴史へと定めました。
M2:具体的かつ裏付けのある記述をする訓練の日々
M2は、専攻内での中間発表の準備から始まりました。
まず、要旨を書かねばならない。結論の見えていない研究について、A4サイズ2枚で専門外の方にも分かりやすく内容を伝える文章が必要となります。
また、要旨や序章の初稿を書く際に直面したのが、「自分のオリジナリティのある主張と、先行研究から読み取って借りてきた主張を区別し、さらに前者を後者で裏打ちしなければならない」という作業。
論文は、誰かの主張をとりまとめるものではない、しかし自分の頭で考えたことを単に論理的に述べればいいわけでもない。
まず自分の主張があって、それを裏打ちする文献を探してくる。その文献の内容を要約して、骨である自分の主張の肉とする。しかし、これを繰り返した末に見えてくるものは、結局、誰かの主張のつぎはぎにしか見えなくなってきてしまう。
自分のオリジナリティが迷子になってしまうのです。
これって、「論文の書き方」のような書籍には必ず書いてあることで、今更感ありますけど、でも「言うは易く行うは難し」、なかなか実践は難しい。
しかもこの辺に神経質になると、文章それ自体がどんどん書けなくなっていく…。
そんなスパイラルに陥っていました。
この時に助けになってくださったのが、汪さんはじめ、文章に頻繁に目を通してコメントして下さる方々です。
この方たちは目が肥えているので、似たような主張になっていれば指摘してくださり、しかも自分の主張の背景となっている思いを理解しようとしてくださるので、もっと良い表現の仕方もご指導くださいます。
この主張の裏付けとなる文献・著者はどれか?
どうしてこの流れからこの結論が導けるのか?
これを論じたいならこの著者は参照しねければならないのでは?
といったアドバイスをくださいます。
誰かに質問をすることは本当に恥ずかしく感じることが最初ありますが、
大丈夫、質問しないで穴だらけの文章を後悔することのほうが恥ずかしいですよ!
卒業にあたり
皆様のサポートもあってなんとか修論を提出出来た今、これから修士課程生活を検討している皆さん、そして修論相手に健闘されている方々にメッセージを送ります。
「迷ったときは、間違った方向でもいいので、とにかく進むこと」
迷っているときは、とかく頭の中で悩み、歩みを止めがちです。
長い人生、立ち止まって振り返ったり、休んだり、時には戻ったりすることは勿論重要なことではあります。
しかし、修士生活には「期限」というものがあります。多忙な1日1日に押し流され、多彩な1コマ1コマに夢中になっていると、本当にあっという間に過ぎ去ってしまいます。
だからこそ、立ち止まっている時間はない。間違ったとしても、それは「間違った」という経験になります。
だからとにかく走り出してみること。
…などと偉そうに書きましたが、これから社会人になる私も肝に銘じなければならないことですね!一緒に頑張りたいと思います。
それでは、またどこかでお会いできるのを楽しみにしております。
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