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卒業感想No.2「遠回りこそが一番の近道」


文責:飯島


 佐藤仁研究室修士三年の飯島と申します。さてこれを書いてる今日、2023年3月23日に修了式を迎え、私の三年間にわたる修士課程が終わりを迎えました。修士課程というのは通常、二年間で卒業するものですが、COVID-19の世界的パンデミックによる影響を大いに受け、自ら納得する形での終了を目指し、私は一年間の在学延長を選択しました。


 友人や知人に大学院に進学した話を、ましてや三年も通とったいう話をすると「勉強が大好きなんだね。」とか「良く飽きないよね。」とか「その年でお金払ってまで勉強するって偉いね。」などと反応されることがたまにあります。少々変わり者だと思われているかもしれません。大卒で就職した周りの同級生たちは今年、四年目を迎えて仕事の責任も増してくる頃だろうし、中には結婚や出産など私よりも遥か先のライフステージを進んでいる人もいます。その中でも私は自ら納得する形で修士を終えることを目指し三年間を東京大学で過ごしました。言葉は悪いかもしれませんが、修士課程は所定の単位を修得し、納得しなくとも可能なテーマで修士論文を執筆すれば二年間で修了することもできました。人から見れば、私の選択は所得を得るという意味では機会損失や「遠回り」に見えているかもしれません。この場を借りてこの特殊な時期にアカデミアという空間で過ごした三年間を振り替えてみたいと思います。


 少し余談になりますが、2022年の三省堂による「三省堂 辞書を編む人が選ぶ『今年の新語2022』」の大賞は「タイパ」だったそうです。これは「タイムパフォーマンス」の略語で「時間的な能率、効率」を意味するそうです。巷では動画や映画は「倍速」で視聴したり、長い物語やドラマ、本などは誰かが作成したYouTubeの動画やブログの要約で済ませることが普通であるそうです。最近話題のChat GPTなどAIもすさまじい進化を遂げており人間が担ってきた面倒くさい仕事を成り代わって担うようになりつつあります。とにかく現代はムダが忌避され効率が求められる時代なのです。つまり「最短ルート」が求められる時代なのです。いわば「遠回り」することはムダなのです。そうした時代感覚や効率性という観点からすれば三年間を修士課程に費やすことが奇異に見られたり、ムダに思われることは当然なのかもしれません。


 2020年、パンデミックという災禍の始まりと、共に入学した私はフィールドワークを軸とする研究テーマから変更せざるを得なくなりました。この三年間を一言でまとめるならば納得できる「テーマ探しの旅」と言えるかもしれません。この旅は苦楽に満ちたものでした。新たな知識を得る喜びもあれば、テーマが決まらない焦燥感や妥協との葛藤、挫折感、無力への絶望といったそうした感情に満ちたものでした。修士論文のテーマにたどり着くまで大きな遠回りだったかもしれません。しかしこの三年間がムダであったとは微塵も思っていません。研究とは直接関連しない知識にもたくさん触れました。様々な研究者や学生との交流、様々な講義や書籍・論文に触れることで世界の知識の膨大さ、多様性を知ることができました。仏教や工学、建築学などここに来なければ一生興味を持つこともなかったでしょう。これも一つの「遠回り」のように見えて私の思考の枠組みを広げ、世界の見方を豊かにしてくれと思います。誰も想像することができないほど巨大な知の海を彷徨う経験の中で自らの無知を痛感する共に、大きな人間的成長を得ることができたのだと自負しています。

コスパやタイパだと効率が正義のように言われる時代だからこそ、あえて「遠回り」も悪くないのだ、時にはそれも必要なのだとここに主張したいと思います。いつであったか、たまたまテレビで目にしたインタビューでイチローであったでしょうか。記憶は定かではありませんが、あるアスリートが「遠回りこそが一番の近道」と語っていたのがふと頭によぎりました。その意図は次のようなものです。そのアスリートは「全く失敗をしないでミスなしで辿り着いたとしても深みは出ない。」と言います(出典が曖昧なのはご容赦ください。)。その時、その時のベストを尽くしていると後から思えばムダだと思えることがたくさんあります。しかし、それは経験したからこそムダだと気付くことができる。そうした経験が彼にアスリートとしてより深みをもたらすのだというのです。ムダは結局、ムダじゃないのです。

これは実社会や学問の世界でも詰まるところ同様なのではないでしょうか。あまりにもコスパやらタイパやら効率性を追求しすぎた結果、物事の目的や人の道の本質を見失ってしまうことは多々あることではないでしょうか。


 意外に思われるかもしれませんが、私が三年間、身を置いた佐藤研では開発・資源・環境といった実社会の切実な問題をそれぞれが扱っていますが、ゼミの中ではどうすれば環境問題が解決するかとか、貧困がどうやったらなくなるかといった問題を短絡的に議論したり、扱ったりすることはありません。我々がゼミの中で議論していることは「面白い研究とはどのようなものか。」とか「良い問いとはどのような問いか。」、「役に立つ研究とは。」、「普遍性とは何か。」のようなメソドロジカルなことであったり、開発経済学のパイオニアとして知られるA.ハ―シュマンや文化人類学者ジェームズ・スコットなどいわゆる古典であったり辞書のように分厚い本に丹念に一言一句に向き合っていくのです。効率主義者からすれば「遠回り」のように見えるでしょう。


 しかし、先に述べたアスリートの話のように実社会に横たわる問題もまた合理的に短絡的に解決策を見いだせるほど社会は単純ではないのです。日本におけるSDGsが良い例でしょう。いつの間にか日本では社会的に「良さそう」なことを実行することがSDGsに成りかわり気づけば本来の理念など無視してエセSDGsが横行しています。


 佐藤先生の「反転する環境国家」(佐藤2019)は「「環境保護」の大義の下に、地域の人々の生活が国家の枠組みに翻弄されて、人々と自然環境との関係がかえって悪化」することを「反転」と呼んでいます(同 ⅲ-ⅳ)。表面的ないいことだけを追求していると逆に状況を悪化させることすらあります。


 だからこそ佐藤研では注目に値する現象を見つけ、それをより大きな社会問題の一部に位置づけることが求められるのです。そうして現象の本質を問うのです。


 だからこそゼミでは短絡的なソリューションを議論するようなことはありません。「遠回り」に見えても現象に着目する目を養い、偉大な先人たちの残した功績からそのコツを学びとるのです。(これが難しいことですが。)


 文章が長々としてしまいましたが、私にとってこの三年間は毎日が刺激に満ち溢れたものでした。どちらかと言えば効率指向でムダを嫌ってきた私の人生がどれだけ豊かなものになったのか。この三年間の価値は機会損失だとかそんな単純な価値基準で測れるものではありません。今後の人生において計り知れない価値を持つ時間でした。


 今は何よりも効率が求められる時代です。しかし実は「遠回り」することがより大きな成果をもたらしたり、本質に近づいたり、逆に効率的であることがあるのです。このことに気づくことができたのは何よりも大きな学びであったかもしれません。


 最後の最後になりますが、この場を借りてお世話になったすべての方に心からの御礼を申し上げます。

2023.3.23 早く咲いた桜が雨に濡れる東京大学修了式の日に

飯島直輝

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